『オーデュボンの祈り』


著者情報等伊坂幸太郎著、新潮社、2000.
寄稿者名教授 因京子(2013年5月)
本学所蔵なし
 いきなり尾籠な話で恐縮であるが、中学生の頃、上級生の一人から、「ある人が握り飯を食べながら用を足していて、飯を食っても結局は糞となるばかりで無駄であると悟り、握り飯を便壺の中に捨ててしまったんだって。あんた、どう思う?」と問われて面食らったことがある。「そもそも、食事と用便とを一緒にやらないでほしい」と全く頓珍漢なことしか言えなかったが、この問いは、長く心にひっかかった。「どうせ死ぬのに、生きていても無駄ではないか?」という問いは、「人間の生に意味はあるのか?」「人の苦しみに意味はあるのか?」「凶悪な人間の命も善良な人間の命も同じように尊いと言えるのか?」「人は人を裁けるのか?」…などと無限に変奏しつつ、立ち返ってくる。年を経て狡さをたっぷり身に着けた私は、「小難しい理屈を捏ねる前に、とにかく今日一日を生きていかなきゃね、人間は」とつぶやいて、根源的な問いから目をそらしそらし、日を送っているのだ。
 伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』を読んで、久しぶりに何十年か前の問答が思い起こされた。といっても、これは、哲学書などではない。新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した、面白さに折り紙のついた小説である。衒ったところのない言葉でつづられた文章につられて、テンポのいいアルトサックスの調べでも聞くように、読者は知らぬ間に固定観念の枠組みをすり抜け、「しゃべる案山子」という荒唐無稽な存在がごく当たり前に受け入れられている不思議な世界に足を踏み入れてしまう。そして、あれこれのできごとに心を奪われ登場人物と一緒にはらはらしているうちに、普段の生活の中でつきつめて考えることを避けている根源的な問いと向かい合っているのだ。この小説には、とびっきり美しいものも、唾棄すべき残虐なものも、描かれている。その両方が私たちの心と無縁ではないことも思い知らされる。この、苦渋に満ちた醜悪な世界を、「握り飯を便壺に捨ててしまう」ことなく、どうやって生きていけばいいのか…この小説を読み終わった人の心には、きっと、この問いと向かい合う勇気が生まれていることと思う。是非、手に取ってほしい。

付記:看護のエッセンスを詩に凝縮した、と言ってもいい人物も登場します。どうかお楽しみに!