『夜と霧』
著者情報等 | ヴィクトール・E・フランクル著、池田香代子訳、みすず書房、2002(原作1946). |
寄稿者名 | 1年生 山崎 衣織(2010年10月) |
本学所蔵 | http://opac.jrckicn.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=18890 |
著者のヴィクトール・フランクルは、かのジークムント・フロイトに教えを受け精神医学を学んだ人です。ウィーン大学医学部神経科教授、またウィーン市立病院神経科部長となり、精神医学者として高い評価を得ていましたが、第二次世界大戦が始まり、ユダヤ人であったフランクルは強制収容所に送られました。
本書の記述の中で最も印象深く残ったのは、極限状態の中でも自分を見失わなかった人々がいたということです。大半の被収容者は、人間らしい生活を奪われ、人間性を忘れ、感情を消滅させてしまいます。しかし、通りすがりに思いやりのある言葉をかける者、なけなしのパンを譲る者などもあったのです。また、収容所監視者の大半は嗜虐行為に慣れてしまったけれども、中には人間らしさを忘れなかった監視者もいました。ポケットマネーからかなりの大金を出して被収容者の為に薬品を買う監督者や、自分の朝食から抜き取っておいた小さなパンを著者に人間らしい言葉とまなざしと共にそっと渡した監督者もあったのでした。
このように「自分」を見失わなかった人が存在していたことを述べて、著者は、「この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間のふたつ。このふたつの『種族』はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も『純潔』ではない。」と断じています。これは、「被収容者は善、収容所監督者は悪」ときめつけていた私の考え方を覆す一文でした。強制収容所で収容者として死の淵に追い詰められたフランクルが、自分を痛めつける側にいた集団の人々に対してもこのように客観的な分析を行ったことに、ただただ驚嘆するばかりです。
本書を通して、極限状態におかれても自分を見失わなかった人がいることを知り、自分はどちらに立つことができるのだろうかと考えずにはいられません。2002年に出た私の読んだ版は、旧版に比べてずっと読みやすくなっているのだそうですが、本を読み慣れていない私にとっては本書を読み進むのはなかなか難しいことでした。しかし、読んで本当によかったと思える作品でした。じっくりと読むことを皆さんにもお勧めします。