『千年の黙(しじま):異本源氏物語』


著者情報等 森谷明子著,東京創元社,2009.
寄稿者名教授 因 京子(2015年5月)
本学所蔵なし
 森谷明子著『千年の黙:異本源氏物語』(創元社推理文庫)をお勧めします。『源氏物語』と副題にあるのを見て、「え~、古典なんかまっぴら御免」と思った人もいるかと思いますが、そのあとに「推理文庫」とあるのを見落とさないでください。そう、この本は、源氏物語の解説などではなく、源氏物語を書いている途中の「藤原香子(ふじわらかおるこ、のちには紫式部と呼ばれる)」が、ある事件の解決に活躍する顛末を、香子に仕えるお転婆娘「あてき」が語る「ミステリー」なのです。
 『源氏物語』は、日本が世界に誇る長編小説であり、今日でもいくつもの口語訳が出版され、さまざまなお芝居にも仕立てられています。それは、風俗や社会制度が変わっても変わらない人の気持の本質を描いているからにほかなりません、と、こういう解説は高校の古典の時間に聞いたかもしれません。しかし、皆さんは、この物語の書かれた時代の社会、書いた人、読んだ人々の日常を、思い描いてみたことがあるでしょうか。紫式部って、どんな人だったのでしょう。人々はどんな気持ちで暮らしていたのでしょう。印刷技術のなかった時代に、どうやって人々はこの物語を手にしたのでしょう。そういえば、『更級日記』にはなかなか手に入らない物語をやっと手に入れて大喜びする少女の気持ちが書かれていました。
 『千年の黙』には、『源氏』を書いている紫の姿やその紫の周りにいる人々の姿がいきいきと描かれていて、読むうちにあの人もこの人もとても大昔の人だとは思えなくなり、登場人物と一緒になって屋敷の内外を、平安の都の大路や裏道を、駆け回ってしまいます。そして、このような物語をこの時代に書きあげた女性がいた日本、そして、それを読もうと必死になった人たちがいた日本に生まれたことが、しみじみと幸せに思えてきます。
 物語の初めに近い場面で、「香子」(=紫式部)は、時の権力者、藤原道長から宮中に出仕するよう要請され、嫌がって悩んでいます。誰でも大喜びするような誘いがなぜ嫌なのか、召使の少女「あてき」は不思議に思います(p.35 、一部中略、改行略):
 
  「だって、宮中の女房なんて、女性ならだれでも憧れる身の上でしょう?」御主(=香子)は気に染まぬ
  手紙を広げながら首を振った。「あてきにはわからないの。後宮女房というのはね、いつでも趣味のよい
  身なりをして、行儀作法も宮中のしきたりも全般心得ていて、参内する人の顔と役職と縁類関係を全部
  頭に入れていて、だれが来ても気の利いた、その相手にふさわしい会話でもてなして、そのうえ不適当
  なことを絶対に言ってはいけないの」なるほど。どれ一つとっても、御主には到底できないことばかりだ。 
 
私はここを読んで、紫式部がいっぺんに好きになってしまいました。森谷明子氏も好きになってしまいました。これは、森谷明子氏の創造した紫式部像ですが、あのような物語を生み出すだけの観察力と創造力と想像力を持つ人であれば、「不適当なことを絶対に言わない」なんて、絶対にできなかったに違いない!
 物語の流布する経緯については、こういう記述があります(pp.28-29):
   
  そして、ようやく書き上げた物語を世に広める。これもまた並たいていのことではできない。たった一部
  の物語があったところで、どうなるものでもない。物語が広く読まれるためには、熱烈な読者が何人も
  応援して、高価な紙も墨も、時間も労力も惜しまずに書き写し、人中に出していってくれなくてはいけない。
 
物語を愛する人がいる国は、素晴らしい国です。作家を尊敬する国は、経済的繁栄に縁遠くなっていたとしても、文明国です。物語への愛は、人間を理解しよう、自分や他者を理解しよう、とする気持ちの表れだからです。理解なくして、惻隠の情が生まれるはずはありません。惻隠の情こそが平和の礎であり、本能の暴走を抑制できるだけの人間の成熟を促すものなのです。
 優れた「エンターテイメント」の作品は、人間への理解と、理解するという行為への理解を深める何かを含んでいます。『千年の黙:異本源氏物語』は、まさにそういう作品の一つだと私は思います。是非手に取ってください。