日本赤十字九州国際看護大学には他の大学にはない英語の時間があります。単位にはならないのですが、学生の純然たる意志によって出来上がっている授業です。それは「英語コース」と総称され、お昼休みの英語トレイニング・コースから早朝のリスニング・コースさらにはトーイックチャレンジ・コースに至るまで様々なコースか成り立っています。その中の一つに私(徳永)担当の医療看護リーディング・コースがあります。このコースは3年前から「ナイチンゲールの生涯」(The Story of Florence Nightingale)を読んでいます。今年は12人の学生が毎回欠席者もなく、熱心に受講しています。
私はこの授業で単に英語の文章を読むということだけではなく、書かれている内容をより深く、またより豊かに伝えるようにしています。そのために過去5年間の中で3回英国に渡り、現地調査や資料収集に励んできました。その成果を、英文を精読しながら、できるだけ多く伝えられるように、そして、ナイチンゲールの真の姿を知ってもらえるように心がけています。単なる英語の授業の枠を超えて、教師と学生が知的向上心でもって素晴らしい交わりの場を形成していると確信しています。
今年の9月、私は3年ぶりに英国に渡り、初めてスコットランドの地を踏むことができました。スコットランドのエジンバラやグラスゴーには19世紀に建った王立病院(Royal Infirmary)が今もその姿を留めているということをインターネットでたまたま知りました。写真はグラスゴーの王立病院です。
当病院でナイチンゲール看護訓練学校の第一期生レベッカ・ストロング(Rebecca Strong)が1879年に看護師長に就任し、看護師の知識と技術を上げるために努力しました。ナイチンゲールは訓練学校の教壇に立つことはなかったのですが、講義のカリキュラムを作成し、病床から書簡で若い看護師たちを励まし続けました。レベッカは卒業生の中でも非常に優秀だったらしく、解剖学、生理学、衛生学などの知識の他に看護職の基本的なあり方などまで、当病院の看護師たちに教えました。
この病院の近くの掲示板に1800年代のグラスゴー市の状況が書かれていました。〈1831年までにグラスゴーは人口が7万人から20万人にまで増えた。その多くがアイルランドからの移住民やスコットランド高原地帯の住民であった。住居や就職が不足し、家もなく貧困と不衛生の中で暮らした。1830年代から50年代にかけてコレラやチフスが流行し、30年代だけでも毎年5000人を超える死者が出た。埋葬する場所もなく、洗礼が不明の死体は病院の裏側の墓地の周辺に放置された。悪臭と不衛生が王立病院周辺からビクトリア駅にかけて満ちていた。〉
ナイチンゲールは疫病の蔓延と公衆衛生を関係づけたり、院内感染などの患者の高い死亡率に着目して病院を改革したりした偉大な看護師でしたが、訓練学校の卒業生たちもナイチンゲールの魂を受け継いでいました。
ナイチンゲールが生きた19世紀は一見輝かしい時代のように見えますが、実は大変な時代であったのです。戦争、飢餓、疫病、麻酔の発明、外科手術の進歩、救貧院病院や王立病院の拡充、医学校の設立、看護修道女の活躍など様々な出来事がこの1世紀の間に起こっていたのです。私の授業はこうした様々な出来事を学生に知らせながら、ナイチンゲールの実像を明らかにしています。