【1年生の岩波新書感想文】『ボランティア : もうひとつの情報社会』


著者情報等金子郁容著、岩波書店、1992.
寄稿者名1年生 栃原 百合(2012年6月)
本学所蔵なし
私がこの本を読んで一番印象強かった場面は、目の不自由なおばあさんの話だ。
 私は今、目で見て、耳で聞いて、言葉を発したり、心で感じたりしている。普段から気にもせず行っている行為だが、当たり前の行為ではない。「もし自分の目や耳が不自由になってしまったら」正直、今の自分ではとても考えられない。
 中学1年の運動会でこんなことがあった。私の中学では、昼食を家族で食べることになっている。そこで、同じクラスの友達が母親と手話で会話をしていたのを見た。それまで、私の身近で手話は見たことがなく、普段の学校生活とは少し違った友達の姿を見て、とても驚き、呆然としてしまった。後になって分かったのだが、その友達の母親は耳が不自由だった。友達はいつも元気で明るい性格だった。運動会の日も堂々と家族と楽しそうに会話をしていた。しかし、その時の私は初めて見る光景に驚き、友達の母親のことを「障害者」という目で見ていた。公の場で手話を使っていることに抵抗はないのかとも思ったし、私だけでなく同じ学年の人やその家族もその友達の家族を見ていたので、それに対する思いはないのかとも思った。
 私は間違っていた。私こそが「偏見」なのだ。心のどこかに「かわいそう」という思いがあった。友達は母親のことを全く気にしておらず、毎日楽しく学校生活を送っていた。私は、同じ年齢なのに自分はまだまだ考えが浅い事に気付いた。それから私は手話を自在に使う友達に憧れるようになった。手話に興味を持つようになり、耳が不自由な女の子が主人公のテレビドラマを見て、私も手話が出来るようになれたらと思うようになった。
 この出来事の後に道徳の授業で「障害者」について学ぶことがあった。私は、「障害者」の意味を履き違えていた。「障害者」と聞くと、五体不満足のイメージにとらわれる。しかし、五体不満足な人たちだけが「障害者」という訳ではない。私は小学生の頃、目が悪く、眼鏡をかけていた。この目が悪いという状況も「障害者」と言える。また、部活で指を骨折した時、ひとりでは出来ないことが多くあった。それは私が「障害者」だったからだ。このように、誰にでも「障害者」になる状況はあるということだ。この時、やはり自分はまだまだ無知だということに気付かされた。
 今の私に出来ることは少ない。しかし、人の気持ちが分かる人間になりたい。これは、看護師になる上で基本的な事だと考える。患者さんをはじめ、他の多くの医療従事者と付き合っていくためには、常に相手の事を考えた行動、発言が重要だ。もちろん、日常生活でも重要なことだ。相手の気持ちを知るには自分が変わらねばならない。まずは、自分の心を開いていきたい。そのためにはやはり、コミュニケーション能力が必要だ。それは、場所、状況を選ばずに良い関係が作れるという事でもある。もし、手話が出来るのであれば、コミュニケーション能力はさらに広がることになる。
「言葉にする」ことは大切だと考えるが、「言葉にしなくても」伝わるものがある。そういうものを大切に出来る人になりたい。私はこの本を読んで改めてこう感じた。




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      喜多学長が、新入生に課題として出された「岩波新書の感想文」を
                シリーズで掲載しています。
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