『太陽の塔』


著者情報等森見登美彦著、新潮社、2003.
寄稿者名3年生 内田 安貴(2012年10月)
本学所蔵なし
私がこの本に出会ったのは高校3年生の受験戦争真只中。当時、京都で大学生活を送りたいという密かな野望を胸に抱いていた私は、京都を舞台にした一般的なスクールライフでも書かれているのだという認識でこの本を手にした。それは大きな間違いであった。
 作中の言葉を借りて表すなら「壮大な無駄」である。この本を読んだところで、何か新たな知識をえることができたり、自己啓発につながったり、モチベーションが上がったりということはまず起きない、ということを忠告しておく必要がある。
 主人公である「私」は京都大学に籍を置く休学中の5回生。彼の大学生活を一言で表すなら華がない、さらに女性とは絶望的に縁がない。そんな彼にも奇跡が起きて水尾さんという恋人ができた。毎日が楽しく愉快であった。しかし、あろうことか水尾さんは彼を袖にしてしまう。交際中から始まった水尾さん研究というストーカーまがいの行為にもますます拍車がかかってしまい、気付けば大学の研究室から逃げ出すこともやむなしという状況になってしまった。
 タイトルにもなっている太陽の塔は物語の中盤になってやっと登場してくる。京都が舞台の物語になぜ大阪の太陽の塔が出てくるのか。私なりの見解はあるが、ここで皆様へ先入観を植え付けるのは申し訳ないので、敢えて書かないことにする。太陽の塔がこの本の中でどういう位置づけにあるのか、読了後に皆様の考えを私にお聞かせ願えたらと思う。
 裏表紙から抜粋すると、「クリスマスの嵐が吹き荒れる京の都、巨大な妄想力の他に何も持たぬ男が無闇に疾走する。失恋を経験したすべての男たちとこれから失恋する予定の人に捧ぐ、日本ファンタジーノベル大賞受賞」ということがつらつらと書かれている。前半部分は概ね合っており理解することはできるが、果たしてこの本が失恋への特効薬になるのか、甚だ疑問である。特に最後の「日本ファンタジーノベル大賞受賞」に至っては、これのどこがファンタジーになるのか、未だに私の理解は及ばない。どなたかこういう風に解釈するのだよ、と御指南いただけないだろうか。

 とまあ、このように無駄に堅苦しく、こねくり回した表現で物語は進んでいく。そこがこの作者を好きな理由の1つであり、また全てでもある。230ページほどの軽い読み物なので、構えず気楽に読んでいただければ幸いである。