『壊れた脳生存する知』


著者情報等山田規畝子著、講談社、2004.
寄稿者名講師 姫野 稔子(2010年8月)
本学所蔵http://opac.jrckicn.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=28808
本書は、脳血管疾患の次第に重篤になっていく症状を患者自身が綴った貴重な記録である。著者は医師であるが、もやもや病(正式名称 ウィリス動脈輪閉鎖症)を基礎疾患として2度の一過性脳虚血発作と3度の脳出血をおこした。脳出血を繰り返すたびに、高次脳機能障害や空間性認知障害、記憶障害、注意力低下が進む。我が身に生じる不可思議な現象に困惑・混乱しながら対処していく様子を、著者は、医学的分析と共に的確に記述している。悲観に走らず、過度の滑稽という自己韜晦にも陥らない淡々とした描写は、読む者をありありと事実に対峙せしめる。とりわけ印象的な箇所をいくつかあげると、空間認知性障害の症状を「階段の前に立つと私の目にはアコーディオンの蛇腹のように、ただ横走する直線の繰り返しが見える。これは上る階段か、下る階段か?すぐには答えが出ない。見回すと前に人が歩いていて頭が段々下がっていく。下りの階段だ。降りてみよう。横走する線は模様なのか?段なのか?足を前に出す適当な幅がわからない」、「突き出しているはずの便器が背景と同じように平面に見えたりする」と記述している。また、記憶障害、殊に作業記憶の障害に関しては、「自動車運転の際、日本が左側通行であるという常識が消え、道路を曲がったとたんに目の前の2車線のどちらを走るのかわからなくなる」という体験が述べられている。想像を絶する現象をこのように体感的に描写した記述は、どのような専門書にも見ることができない。

 現代日本において脳血管疾患は増加の一途をたどっており、高次脳機能障害という言葉は広く知られるようになってきた。高次脳障害をはじめとする脳血管疾患の後遺症は多岐にわたり、患者の多くは体験を語るための機能を失っていることが多いため、高次脳障害者の内的世界を知る機会は非常に少ない。本書の著者の場合は、損傷部位が右大脳半球に限局し言語機能に障害を来たしていないことが執筆を可能にした。しかしながら、何にもまして強く執筆活動を支えたのは、第二のライフワークとして高次脳機能障害に対する社会的認知を広げたいという著者の強い意志であると思われる。海外には「Injured Brains of Medical Minds. ~Views from Within~(医療従事者たちの傷ついた脳~内面からの眺め~) (オックスフォード大学)」という認知障害の手記等をまとめた書があるが、本書のように右頭頂葉の障害を示す手記は見当たらない。医師としての視点や知識による内的世界の分析・描写は、高次脳障害の理解のために非常に貴重なものであり、また、障害をもちながら育児に奮闘する著者と著者の障害を理解し支える息子の姿も、人間の力の果てしなさを感じさせてくれる。知と情を揺さぶられる一冊である。