『アンベードカルの生涯』


著者情報等ダナンジャイ・キール著、山際素男訳、光文社、2005.
寄稿者名教授 因 京子(2009年9月)
本学所蔵http://opac.jrckicn.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=33768
2009年夏の国際看護学Ⅱの研修旅行に同行してインドを訪れることになった私に友人が薦めてくれたのが本書である。不明にしてこの人の名を私は知らなかったが、これほどの意志力を持ち得た人間は人類の歴史の中にも多くはなかろう。何故この人の名がマハトマ・ガンジーほど日本では知られていないのか、いぶかしく思う。

 アンベードカルは、不可触賤民と呼ばれる最下層の階級に生まれ、筆舌に尽くしがたい差別を受けて育ったが、機会を得て学問を修め、世界でも最高のレベルと目される米国コロンビア大学、英国ロンドン大学の両方で博士号を得た。インド独立にあたり憲法を執筆したのはこの人である。彼の能力をもってすれば、大きな個人的栄達をもたらす別の可能性も開けていたと思われるが、彼はインドの地にとどまって出身階級の人々への差別を撤廃することにその生涯を捧げた。

 差別撤廃を求める戦いの中で、かのマハトマ・ガンジーと何度も対立し、恐ろしい孤立、中傷、脅迫(ガンジーその人の断食によるものを含む)に苦しめられながらも、最後まで批判の矛先を鈍らせなかった。ガンジーは一般には「不可触民の保護者」として知られており、彼らを「ハリジャン(神の子)」という美しい名で呼んだが、アンベードカルは、こんな呼称は問題の本質を覆い隠す瞞着だとしてこれを法的用語とすることを肯んじなかった。また、ガンジーの「聖者」としての身振りがインド人から政治的・現実的改革を目指す実証的精神を奪ってしまったと批判した。一生涯深い信仰心と共にあった人であるが、一方で、宗教的諦念に逃げ込むことを断固として拒否したのである。社会学、政治学という体系的学問を修めた知性の輝きを私はここに見る。

 インドは不思議な国である。あれほど貧しい人があれほどの数存在するところは他に類がなかろうと思われるが、その中に、ここは確かに世界最古の文明の一つを胚胎した国であると思わせる何かがある。アンベードカルにも人間としての瑕疵、政治家としての限界はあったであろう。しかし、最晩年まで絶えることなく襲ってきた失望にも負けず、理想のために働くことを止めなかった。この大きな魂が生まれた土地であると思うと、インドの不潔と混沌に大きな意味があるように思われたのである。是非、一読を薦める。