異文化間コミュニケーション・イギリス研修第二報
―近代看護の祖F.ナイチンゲールゆかりの地を訪ねて

本学の研修参加学生20名は、サルフォード大学Mary Seacole棟で同大学保健社会学部の学生との異文化間コミュニケーション・ジョイントプログラム2019を終え、翌日2月7日の午前中は、マンチェスター市街に在る世界最大級の図書館の1つ、The John Rylands Libraryを訪問しました。この図書館は、18世紀後半に起こった産業革命によって巨万の富を得たマンチェスター市在住の資本家John Rylandsの私財をもとに、彼の死後、妻のEnryquetaが市民のために建てたネオゴシック様式の建築物です。現在はマンチェスター大学所有の図書館となっています。外観もさることながら館内の荘厳な美しさにしばし時間を忘れるほどでした。聖書の写本やシェイクルピアや19世紀マンチェスターの貧民街を描いたエリザベス・ギャスケルをはじめとするイギリス人作家の原稿、公文書、地図など、貴重な蔵書や資料が収められており、このアーカイブには世界中の人々がアクセスすることができるシステムになっているそうです。

私たちが訪れたときはちょうど、この荘厳な館内で若いカップルと赤ん坊が参加する絵本の読み聞かせの時間がゆったりと持たれていました。この場面は、どのような経済環境で生活をしていてもすべての人が等しく知識や情報にアクセスできるようにとのEnryqueta Rylandsの本図書館建造趣旨と、ヨーロッパの伝統に根づく歴史的遺産である文明や文化を次世代の教育に無償で役立てようという思想とが、まさに体現された光景でした。
その日の午後はイギリス第二の都市マンチェスターをあとに、いよいよイギリス最大の都市ロンドンへと移動です。マンチェスター・ピカデリー駅からロンドン・ユーストン駅まで、車窓から見えるイギリスの田園風景を楽しみながら、列車に揺られて約4時間の旅をしました。ユーストンに着いたときはすでに暗くなっていましたが、総勢24名のわれら研修生一団がキャリーバッグをゴロゴロ引きながら、ラッセル・スクウェアに在るホテルまで行列をなして歩きました。

ロンドン滞在2日目は、まずナイチンゲール博物館を訪問しました。セント・トーマス病院を右手に見ながら同じ敷地内に建てられた同博物館は、ナイチンゲールが看護学校を作ったまさにその場所で、2階には当時の部屋がそのまま残されているそうですが、一般公開はされていませんでした。年間約40万人の来館者があり、その5割は20代以下とのことで、私たちはちょうど先客の幼稚園児の団体が見学を終えて玄関を出るところに出くわしました。日本では小学校高学年の学級文庫の棚に並ぶ伝記シリーズで「ナイチンゲール」を知る人が多いのではないかと思いますが、先述のマンチェスター大学の図書館で遭遇した赤ん坊にもみられたように、このような幼少時から歴史的遺産に触れさせて次世代を教育しているのかと、改めてイギリス人の教育スピリットに敬意をはらう一場面でした。

ナイチンゲール博物館内は、看護の歴史を縦糸に、ナイチンゲールの人物像と功績、戦争、看護職の社会的地位向上などを横軸とするコンセプトをもって、キュレーターによりきっちりとデザイン・構成されていました。ナイチンゲールがクリミアのスクタリ病院で「昼夜を問わずの傷病兵の看護」に使用したランプとその薄暗い明かり、院内を見回る足音、当時着用していたヴィクトリア朝の衣装や看護服、それにディクタフォンに録音されたナイチンゲールの肉声などが再現・展示されているなか、薄暗い館内にナビゲーター役のミス・ナイチンゲールまで登場するなど、臨場感あふれる演出に、まるで19世紀にタイムスリップしたかのようでした。しかし、ミス・ナイチンゲールから「団体写真を撮りましょう」と言われた瞬間、現実に引き戻されてしまいました。

本研修プログラムでは、ナイチンゲールが創設した看護学校を、現在包摂しているロンドン大学キングズカレッジの同大看護・助産学部の学生との交流を予定していました。しかし、交流の窓口担当の先生からの緊急の連絡があり、学内にインフルエンザが広がっていると知らされ、協議の末、本研修が中盤にあるなか、ここで本学の学生に感染者が出ては研修後半の実施に影響すると判断し、次のチャンスを期して、やむなく交流を中止することにしました。
次に訪問したのは、ナイチンゲールとは看護職に対するスタンスを異にしたイギリス王立看護協会です。同協会は1916年に34人の看護職により看護職の発展を支援する看護協会として設立され、現在では43万5千人以上の看護職が会員登録をしている名実ともに世界的な職能団体です。同団体の働きにより、1919年には看護婦登録法が成立し、イギリスの看護師の国家資格試験とともに国家登録制度が確立しました。1926年にメアリー王女が看護協会の公式パトロンとなり、さらに第二次世界大戦における看護師供給による国家への貢献が高く評価され、1939年にジョージ六世によりRoyalの称号が与えられたことで、今日の名称に至っています。私たちが同協会を訪問した時はちょうど、大きな看護職会議と登録看護師制度発足百周年記念を祝う事業が大々的に行われている最中で、館内は多くの人でいささか騒然としていましたが、図書館内は静寂な空気とイギリスのみならずヨーロッパ中の看護に関する蔵書や資料の膨大な蓄積に、同協会の活動の歴史とその遺産の重みを強く感じ取ることができました。

同協会は看護の制度化をめぐってナイチンゲールとは真っ向から対立していました。ナイチンゲールが看護をキリスト教的愛の実践であり看護婦個人の弛みない自己研鑽を期待する場であると主張したのに対して、イギリス看護協会は看護師の国家登録制度は患者を無知な看護師から守り、看護師を専門職として確立することは看護師の地位の向上につながると主張した。イギリスのすべての有資格者を公認専門職者に従事する女性として統合し、組織的な訓練を受けた証拠として医師や外科医がよしとする条件において登録させ、その目的達成のために時の最高権威者ヴィクトリア女王だけが出せる勅許状を獲得して協会を法人化し、国家登録制度に関する絶対的な権威と権限を得ようとした。これに対し、ナイチンゲールは看護教育の主眼は人格であって、それは単に技術的な教育を施せばよいというものではなく、個人の人格は登録制度の試験では評価はできないと反駁していました。しかし、1893年にはついに王立看護協会の看護婦登録制度が導入され、ナイチンゲールが譲歩した形で決着をみ、さらには同協会のはたらきにより1897年に看護師身分法が成立したことで看護師の組織化の利点が示され、世界的な動きを形成していったそうです。このような歴史的な動きを刻む看護師登録証が、私たちが訪れたナイチンゲール博物館には展示されていました。

さて、看護に対する高い理想を掲げたナイチンゲールの偉業の足跡を辿る旅も、彼女の像が立つウォータールー広場でターミナルをむかえます。クリミア戦争での戦没者追悼記念碑の中に立つナイチンゲール像は訪問者に、クリミア戦争での彼女の功績がいかに大きかったかということを想像させずにはいません。「クリミアの天使」「ランプを持った淑女」として讃えられたナイチンゲールは、クリミア戦争の傷病兵を献身的な看護をしたことで世界的に有名です。しかし、統計学者としての一面はあまり知られていないのではないでしょうか。ナイチンゲールは19世紀イギリスにおいて統計をビジュアル化するグラフを数々と開発し、統計の発展に寄与したことにより、1859年に王立統計学会初の女性会員として承認されました。また、クリミアのスクタリ病院で多くの兵士が死んでいった主因は、戦傷よりもその後の傷の手当の不適切さによる感染症罹患によるものであることを、統計とグラフを駆使した膨大な報告書をもとに医療現場の衛生の実情を政府に訴え、病院内の衛生改革を進展させました。これらの歴史的事実を知ることによって、なぜこのウォータールー広場にナイチンゲール像が建立されているのかということの真の意味を理解することができました。
この続きは第3報でお伝えします。

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(左)フローレンス・ナイチンゲール博物館内    (右)クリミア戦争時の看護服

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(左)イギリス王立看護協会  (右)イギリス王立看護協会による看護師登録証
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ウオータールー広場のナイチンゲール像